子峰院の子平学・四柱推命( 子平学・四柱推命の歴史 )

 今回は平岡滴宝先生の著書の中から、子平学・四柱推命の歴史や人物について

書かれたものを一部抜粋し書き写してみました。

著書は、四十年~三十年前に書かれたもので数字的に食い違う点が

ありますが、そのまま書き写していますので御了承ください。

 先生は専門書を求めて幾度と中国に渡り、日本では手に入らない本を手にして

勉強をした人でした。

 

< 「子平学・四柱推命法深書」序の章 子平学より >

 相国、陳素庵氏(清代初期、順治時代、一六四四年頃)の命理約言と言う

書には、禄命の学(子平学)はいつ頃から起ったのか、はっきりしないと

書かれています。

 明代の張神峯氏は、徐居易氏が始めてだろうと言われています。

その原則らしきものはずっと昔、西紀前三〇〇〇年頃、伝説時代と言われ

黄帝にさかのぼると書いておられました。

 いろんな諸説はありますが、現在の四柱推命即ち生年月日時の四柱八字を

基本として、いつ頃から人の運命を推しはかるようになったのか、

区別出来る資料や基準はないと言ってよいのではないでしょうか。

 ちなみに先の鬼谷氏は、黄金策と言う五行易の書を書き残された人です。

 漢代、世紀前二〇六年より始まり、世紀二二〇年迄の間では、

星宗や七政四餘と言ったいわゆる星で占うやり方があり、

人によってはそれが子平学の原点だと言う人もあります。

又一説では、六一四年からはじまる唐代での李虚中氏が、

四柱八字の干支の生尅に、主眼をおいたやり方をした時とも

言われたりしています。さらに現在の仕方に最も近く、

通変星を使用し始めた時が、子平学の最初とすべきだとの論もありました。

しかしこの通変星をいつ頃から使い出したかについては、

これ又確証がありません。

 一三六八年から始まる明代の人で、三命通会と言う書を編纂された、

民英、萬育吾氏は、虚中、居易、大升、徐公升に至る迄、

即ち唐代から宋代の間では、いくど推命のやり方が変わったか知れないと

記しておられました。

 居易、大升、公升、三氏の性は「徐」であり、徐子平の称号は、

この三氏のいずれにもあてはまると言えそうです。

 二〇〇〇年以上の歴史があると言われる各種の占術では、

生まれ年を主体としていますが、これは現在でも、生まれ年の「えと」

として皆さんもよくご承知のとおりです。

 この基準となる生年の干を日干に変えた人は、九〇七年から始まる、

五代十国と言われる末期の徐居易だとされ、それ迄は四柱推命も生年の干が

基本となっていました。

 又徐大升は北宋、徐公升は南宋時代の人で、皆さんがよく耳にされる

「渕海子平」と原書は、東斉、徐公升の編纂になるものです。

 もし「「渕海子平」を、徐公易(子平)氏が書いたものと

記憶されている人があるとすれば、それは、あやまりです。

 このように見てゆきますと、徐大升氏の渕源定眞論では、

すでに通変星が使われおり、やはり現在的な四柱推命と言えるものの

起りはどうやら五代の人、徐居易氏頃からと言っても

良いのではないでしょうか。

 しかし当時の日干主体の推命法は、四柱八字の干支の生尅と同時に、

古来からの星をも併用していました。このやり方は、

三徐、明代の萬育吾、張神峯、清代初期の陳素庵、

(後年は無神殺に変わっています。)四言集腋の廖氏、

近代徐楽吾、袁樹珊、龔稚川などの各氏に受けつがれ現在に息づいています。

 現在の日本では主にこの方法のようです。

もう一つは、明代を起こした朱元璋の軍師、劉基伯温と言う人が

残した滴天髄です。

 この内容は、干支の生尅の情を重視し、陰陽の変を言い、格を集約し、

すべての神殺星を排除してあります。これは画期的な方法で、

後世の人は無神殺論と呼び、現在の中国子平推命の主流を

なしているとも言われています。

 この無神殺論をうけつぐ人には、宝鑑を原編された余春台、

後年の陳素庵、同じ清代、任鉄橅、沈孝膽、韋千里、張耀文の

各氏があげられ、日本でも次第にその支持者が増えつつあります。

 かく言う私もその端の一人です。

 子平学の沿革は概してこのようであり、神殺併論と無神殺論の二つに

大きく分かれているのが四柱推命の流れと言えそうです。

 ここで特に目をひくのは、今から約六二〇年も前に初めて

無神殺論を展開した劉伯温氏であり、

後年になって無神殺論に変わった陳素庵氏であります。

 両氏は渕海子平に精通し、なお無神殺論を支持しました。

そしてさらに言いたいことは余春台氏を初め、清代以後の殆どの人達が、

その両方に精通しながら、それぞれの論を展開していることであり、

いかに旧説と言えども、あくまで神殺が主体ではないと言う事実です。

 こうした中でさらに私が興味をひかれるのは、

前述にあげた徐楽吾氏などを含む清代迄の先輩達の殆どが、

占術のプロではなかったと言うことです。 

 これは何を意味するのか。

 それは各種の占術の中でも、子平学は運命学として真に興味深く、

価値があると各氏は思われたのではないだろうか、

それならばこそ無神殺派の人達は、占術の主役である星々を排除し、

天地の自然と人間との、リズムの同体化を重要視されたのではないかと、

私にはそう思えてならないのです。

 しかし私は劉伯温氏の生涯を知るにつけ、言葉少なく残された

滴天髄の原文の中に、人としての生き方のようなものを

教えられた気持ちがし、なおやがて来るべき21世紀の人々の生き方、

考え方迄、問いかけられているような気がしてなりません。

このような気持ちから、私は子平学だけを専攻し、無神殺論を支持します。

 

又< はじめ >の項では

 原書を見られた先生の中には、たとえば鬼谷子を周末期、

戦国時代の人と記された人がありましたが、もう少しあと迄読んで頂ければ、

戦国時代ではないとあるのがおわかりになったと思いますし、

徐子平を徐居易氏だと記し、陳希夷氏と友人だと言われたりしていますが、

居易氏は五代の時代で、希夷氏は北栄の時代ですから明らかに時代が違い、

友人になれる筈がありません。   

 宋代では徐大升氏が定説であり、陳希夷氏は徐大升氏と

友人であった可能性は考えられます。

 

「平岡滴宝訳 神峰通考 干支対象詩」では、

次の様に書かれています。

 天干体象についての論説で有名なのは、

劉伯温氏の滴天髄、著者不明の造化元論(俗に言う窮通宝鑑)と、神峰通考の

三書であります。しかし内心驚かされことは、

同じ明代でも三者に疎通が見られないのに、

その考え方が似かよっていたと言うことです。

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     < 和珞の感想 >

※滴天髄、造化元論、神峰通考が似かよっているとは言え、

異なった解釈は至るところに見受けられますね、

そいったところを見つけて三者の違いを味あう事ができれば、

子平学はより面白味が湧いてくるのではないかと思います。

 この三書は共に上記の通り明代です。

私が興味を持ったのが、渕源定眞論を書かれた北宋時代の徐大升氏の事で、

深書の十天干体象の章では、氏の元理腑の中に現在では「反生反尅の理」

と言われる干関係の特殊性がすでに書かれていたと、

宋代は明代より古く三書の頃よりおよそでも百年以上前の事となります。

勿論大升氏の論と似たものが明代の三書に中にもありますが、

現在でもあまり唱えられてないものあると

感じながら時々重宝に使わせて頂いております。

 

滴宝先生は著書の至る所に 

子平学に関連する時代と先人方の名前を記しては、内容説明をしておられます。

お手元に著書をお持ちの方は、こうした文にも御目を止め読んで頂けますと

子平学をより楽しんで頂けるかもしれません。

 私は恥ずかしい話ですが独自で子平学の、歴史の勉強をした事がありません。

なぜなら滴宝先生の著書には充分にそれらが書かれていたからです。

何度となく読んでいく内先人方の名前、著書名、時代や順序は

頭の片隅に残りました。

先生は子平学だけでなく中国の歴史物には興味をお持ちで、

記憶に残る物としては、陳 舜臣氏、吉川英治氏、井上靖氏の作品を

読んでいた事を思い出します。

 私はユン・チアン氏のワイルド・スワン上下二冊を選び、

誕生日にプレゼントしてとても喜んで頂いた思い出があります。

      

  ( 無断使用・転載禁ず ) 

 

参考文献 平岡滴宝著  「子平学・四柱推命法深書」

     平岡滴宝訳  「神峰干支体象詩」      

          

 

( 子峰院 占い人・和珞 2020/10/06 )

 

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