子峰院の子平学・四柱推命 ( 鑑定例・秦の始皇帝 )

 平岡滴宝先生からの生前形見に頂いた品物の中に「和珞さんが之を読めば

嵌りますよ」と頂いたのが、陳瞬臣氏の著書である「十八史略」12冊でした。

始皇帝は最初に中国を統一した人として知られていますが、本を読めば

意外にも苦労人でしたことからTwitterにその事を書きましたら、

フォロワーさんからこんなコメントを頂きました。

 

平策命理帝王譜』には始皇帝の命式(命譜)が記されています! 飽くま

でも命理家による推測によるものですが。 「秦昭襄王四十八年正月朔旦、

嬴政生于邯鄲。是局、秦朝始皇帝嬴政乾造、辛丑、庚子、癸亥、乙卯。

大運、己亥、戊戌、丁酉、丙申」 年柱、辛丑 月柱、庚子 日柱、癸亥 時柱、

乙卯と。

「有難うございます」

 朔旦とは、詳しくは「朔旦冬至」と言い19年毎に訪れる大変おめでたい日だ

そうです。陰暦の11月1日( 11月節太陽暦新暦12月節 )と言う

事で初運は「0歳」にしました。

 

< 命式・男性 >     キ=喜  ィ=忌

時 日 月 年     子丑-支合 

食   印 倒     月令-癸  季節-冬

乙キ 癸ィ庚ィ辛ィ    癸(令)1,5-1支(2,5)

卯キ 亥△子ィ丑ィ     庚辛2干-0支 ()

乙 壬 癸 己      乙1干-2支 (

  A4,5 対 B3      内格-食神格

この形は、時上一位の食神格と言うのだそうです。時干だけが喜で食神

AがBより強く、基本Aの日干類と印星が忌、B児財官が喜になる。

運では水や金を強める時期は忌運、弱める時は喜運。

木を弱める時期は忌運、強める時期は喜運となる筈ですが、

月丁は癸(水)ですから丙運は、年干辛と化水丙は壬、辛は癸に変わります。

 

< 命式は >

子丑は支合、支合とならず作用すれば水は方局が揃い忌の癸は強くなり過ぎ

ますから、この支合は有情

火気は全く無く金は「金寒水冷」でクール。「冬の癸は亥の根を持ち降り続け

解ける事を知らない雪は、雪で自身を隠し人の事も見えない状態」と通常なら

書くところですが、この命での偏印(倒食)の透干は人の気持ちを察する力と

綿密な計画性があります。

史略でも「幼少の頃から、知能は抜群、早熟で他人の心を察すること驚くほど

すばやい。」と記しています。他人に心を読まれない自負を強く持っていたそ

うで、他人に気持ちを読まれると酷く自尊心が傷付きその返しはクールな

だけに尋常ではなかったとそうです。両印透干の象意は、一度に色々な事を

考られるです。又、乙食神は冬生れで雪の下の蕗の薹(ふきのとう)程の

愛嬌がありますから厳しい性格の中にも、人の心を和ませるテクニックを

持ち効果・有効的だった筈です。時上一位の食神の御蔭で家臣は就いて

来たのでは無いかと?

先ずこの命式を見た瞬間冷たさで健康を疑いました。やはり体質的

には弱かった様で、不老不死の仙薬を求めて大財を使ったそうです。

どんな恐い相手でも、大胆不敵にもその弱みに付け込む人はいるもの

です。

年辛金と月庚金の関係は、通常、年干が月干に尅を受けて見えますが、

辛が希少的価値になれば反ってダイヤモンドやモリブデンの様に硬いと言われ

1干0支の辛は硬く、無根の庚はむしろ剛健ではなくなりますから、

この場合辛は負けていません。年干を父親と見る時月干との関係で反骨

精神あって良い仕事をされる人と見る事も出来ます。

年支と月支丑子の支合は、母親は社会環境の人と友好的で忙しく本人との

関係は希薄と見る事が出来ます。

十八史略を命式と関連させて両親をみれば面白く、ついにんまりしてしまい

ました。

 

< 大運 >

90 80 70 60 50 40 30 20 10 0

        〇 〇 ✓ 〇 〇 〇

庚 辛 壬 癸 甲 乙  丁  己    ←(年運)辛壬癸甲乙

印 倒 劫 比 傷 食 劫 才 官 殺

寅 卯 辰 巳 午  申 酉 戌 亥    ←(年運)丙丁戊己庚

  〇 △ △ ✓ ✓ ✓ ✓ ✓ △

亥     亥 解 解   卯 卯 

 

< 大運は >

〇己の偏官運は喜運、無根で乙に尅され金は湿金汚金、しかし 喜運

本来なら得られるはずの無い地位に就きましたが、その待遇は満足の行く

ものでは無かった様です。

〇戊運は日干癸と干合 絆神強化戊は三倍の強さに喜忌変星に見えますが

戊は乙に尅され金にも洩れますからAとBのバラスは取れ非常に良い時期で

調節期としては最高の時期。皇帝となりました。

〇30才の丙運は、上記の通りで化水運、丙は壬、辛は癸 冲天奔地となります。

年干の変化は生れた環境の変化、この頃両親に変化がありました。

運の壬癸は日干忌の癸を冲天奔地で強めますから、気持ちが荒れる出来事

が次から次へと起りります。ドラマとしては30才からの十年間が一番面白い

場面だと思います。

〇35才からの申運は、忌の水と金を強め、30才からの天干運冲天奔地

の影響が続くような運は苦労の連続です。現在では考えられない出来事が

次々と起ります。気分的には大荒れの時期でしたが、年運は己卯の38才

の時に天下統一を果しています。しかし秦王の親征は一度もなかった

そうですから、家臣の運の良さが大きかったのと年運や後の運の良さによる

ものかも知れません。又

史略では、「天下統一の事業が進めることができたのは鄭の灌漑大工事

や四川の開発によるところが大きかった。」と、書いています。

この方の身分としては非常に良い時に調節期が巡っていますから、

その時期に幾人かの優れた家臣との出会いがあったのでしょう。

満48才大運は未で死去未運は有情の支合を解いた忌運でした。

子丑は地支の中でも最も冷たい地支です。天干の壬癸は季節によって

暖かい水もあります。冷たさや寒さを表すのは水の方局の地支即ち亥子丑

と考えています。火気が全く無く月令に旺じられた癸に冷たい方局が揃えば

健康への影響を考えるべきかと思います。

虚弱体質の上、天下統一後は、占術師に進められて広い国土の巡行を

繰り返して無理をした。と、書かれています。現在の書物では死因につきま

しては様々な憶測がされています。

 

< 最後に >

 始皇帝は、自身の生い立ちから保守的では無く創造者になろうとして、思い

切った政策には棄てる事を恥辱との考えは無く、新しい政策を次々に実行して

いきました。使い回しの名を嫌い自らつけた「始皇帝」の名も、その中の一つ

と言えるでしょう。統一後彼は自身の思い通りの政策を考え押し通して

行きました。大いなる創造者で尚且つ開拓者と言えるのではないでしょうか?

しかし、虚弱体質と無理には勝てなかったようです。

命理家による推測の命式らしいですが、私なりに推命してみましたが

とても楽しい作業でもありました。もっと書きたいと思いましたが

、又ボロが出てもまずいと考え、今回はここいらで手を引くことにしましょう。

 

有情の支合や冲が解ける運では気をつけた方が良いでしょう。

勿論、無理は禁物です。特に有情が解けて地支が日干を強める時期は欲が

伴い、つい無理をしてしまいます。

ご注意なさいますように。今でしたら医療の進歩もありますが、素晴ら

しい健康グッズもあります。ホッカイロがこの頃あれば始皇帝ももっと

長生きが出来たのでは無いかと思います。ホッカイロは仙薬よりも効き目

がありそうです?。

 

( 子峰院の出版物 及び ブログの参考文献 )

平岡滴宝訳  「改訂版 新訳・滴天髄」 「改訂版 神峰通考干支体象詩」

平岡滴宝著     「改訂版 あなたの運命のすべて」

        「改訂版 子平学・四柱推命法深書」

                       「改訂版 秘本・子平廣論」 

 

( 子峰院 占い人・和珞 2023/06/18 )

 

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