子峰院の子平学・四柱推命( 彼女の身の上話№4 )

< 日干を強めるグループと日干を弱めるグループの

平均が取れた命式は中庸の命式の部類に入ります。>

平岡滴宝式子平学を、私がブログにする時

日干を強める、両印星と比肩・敗財・劫財を一つのグループと考え

このグループをAグループ、省略してAと書く事がよくあります。

〇又、日干を弱める、食神・傷官、偏・正財、偏・正官を一つのグループと考え

Bグループ、省略してBと書く事がよくあります。

日干を強めるグループはA   日干を弱めるグループはB 

ご存知の様に強さは 月令(季節重視)計算や絆神強化や

通根(何干何支)を数字にしています。

 

命式によっては数字的にAとBのバランスが殆ど取れたものがあり、

 

その差がない為にAとBの喜忌が取り難いのですが、

干関係や、地支から天干への影響順等から必ず強弱は出る為 

強い方が忌 弱い方が喜と出来ます。しかし

そうした命式は、命式自体が「中庸」で良く、大運ではバランスを崩す為

どうしても喜忌変遷が起り「喜運」の印は付け辛くなるのが現状です。

その上、命式の干関係が悪くなければ病気やケガ等も少なく「平々凡々」の

人生となります。

 

波乱万丈、右折曲折の人生ばかりを見てきた私共門下にとりましては

これ程「良い命式」は他には無いくらいですが、

人は様々!平々凡々をこよなく愛するタイプの方には申し分無い命式

でも、野望をお持ちの方にはかなり物足りない人生となります。

鑑定書を手にしても満足がいかない場合もおありかと?

しかし占術が全てでは決して有りません。私の様な鈍らな人間に取っての

努力はなかなか思案の技で難しいものですが、

是が非でも、大きな希望の実現を叶えようとする人は、

その難題の努力を惜しまないのでは無いでしょうか?

又、「良い命式」とは、努力には結果が伴うはずです。

 

 

< 貧しさは最大の悪! >

 戦後一般市民は大抵貧しさに苦しんでいたのでは無いでしょうか。

それでも人達は差さえ合って生きていた時代でした。私の実家は親戚から

「母屋」と言われ、何代も長男が跡を引き継いできた家でしたが、戦後の

農地改革などや近所の親戚、大勢の家族で内情にはかなりの厳しさがありました。

小学校高学年で中古のミシンを母親から買って貰いましたが、ミシン針は消耗品

丁寧に扱っても使い方の量でどうしても先が丸くなったり折れたりして使い物に

ならなくなります。ミシン針を買って貰う事には、

針だけに本当に骨が折れました。

針を買ってくれるのは祖母!

野菜の行商をして遠くは渡し舟にのって店が立ち並ぶ皆が「町」と呼ぶ、

小さな城下町の繁華街、ミシン屋さんで針を沢山求めてくれれば良いのですが

祖母が買うのは何時も一・二本でしたから、手渡された時は嬉しさより緊張感が

走ったものでした。

 家や親戚の手伝いは当然のことでお小遣いは貰えず、ご近所の内職で浴衣

縫製をしている仲良しの小母さんが作る浴衣の待ち針打ちの手伝いをしては、

ミシン針を買う為の資金を手にしていました。大そうな話ですが・・・!

今では生布屋さんや百均やホームセンタで安く買えるので幾種類そして

数十本のミシン針が手元にあって大助かりで些細な幸せ感です。

何時も「お金が無い」と言う母の言葉は大嫌いでしたから

貧しさは私に取っての最悪の「悪」でしかありません。

 

< 彼女の身の上話 >

 彼女の実家家族は、私の実家を「母屋」と呼ぶ近所に住む親戚筋でした。

彼女は、戦後間も無いベビーブームと言われる頃男性二人 女性二人の

四人兄弟は二番目 長男の後に生まれて弟と妹がいました。

父親は戦時中兵士として勤め、戦後外地から無事帰還して直ぐに

母親と結婚しました。

父親は双方の実家の農作業の手伝い、小屋みたいな小さな自宅で母親は

機械編みを数人の生徒に教えて生計を立てた暮らしは貧しさそのものでした。

中学を卒業すると、父親を命の恩人と言う地元の議員さんの伝手で

専売公社に入公、夜学で高校を卒業しました。

年頃になると彼女の母親はまだ中学生の私に「彼女は裕福な老人に

嫁がせ自分達夫婦共々世話になって楽な暮らしをするのだ」との話を聞いた

時には子供心にもそら恐ろしい気分になりましたが、彼女は勤め先

であまり歳の変わらない人と結婚した時には、思春期の私は安心で

胸を撫で下ろし嬉しかったものでした。

 彼女の嫁ぎ先は、タバコやお菓子や日用雑貨などを売り、その頃地方の

片田舎には大型店舗等無く、地域では一店舗で老舗の個人商店は繁盛して

「資産家」と、ご近所からは呼ばれていました。家族は伴侶の両親と祖母、

弟が一人、結婚後も当時公社は福利厚生も良く、子供が生まれても公社内の

保育所に預け定年まで仕事を続けました。

同居の義祖母が痴呆を患い身体も病み出した頃、その世話をした姑は店番

と忙しく、彼女は仕事から帰ると直ぐに食事の支度や家事と彼女の負担も徐々

に増える事はあっても減ることはありませんでした。

子供は男女一人ずつ二人恵まれ、二人の子供は健康に恵まれた御蔭で

彼女は中学校卒業から定年まで勤めを全う出来たのです。

期間的に溜息が出るほどの長さです。

退職の頃は、義祖母の世話をしていた義母も病を患い寝たきりとなり、施設や

病院に預ける事無く、二人の世話は彼女一人の肩に

ドシッとのしかかったのでした。

 

 ある日彼女は、日頃慕っている私の母を訪ねて実家に来たそうです。

少し話して帰ろうとした時「おねえさん、身体がしんどいから三十分程休ませて

三十分しても起きられないかもしれないから起こして貰える」

(以前実家の近所では、慕う人や頼りにしている人をおねえさん、

おにいさんと呼んでいました。)

母はこの人にしたら可笑しな事を言うなと思い乍「起こしてあげるよ」と言って

毛布を出して着せましたが、彼女は一人で起きお礼の言葉を残して

帰って行ったそうです。

 

母は次の日、彼女の伴侶から突然、彼女の訃報を電話で知らされました。

朝伴侶が、気がついた時には布団の中で冷たくなっていたそうでした。

彼女の死から数ヶ月年老いた母はショックから立ち直れずにいました。

「彼女の事をもっと気に止めていたら助けて上げられたかも知れない」と

何時までも自分を責めていましたが、私には慰める言葉は見つかりませんでした。

若かりし頃小母さんが言っていた様に「富豪の老人の所へ嫁に行って」いれば・・

彼女は本当に美人で優しく、その上器用な人で可笑しいかな、

子供の頃、大人達の会話では「草むしりをさせたらあの娘が一番」と

私の叔母がレースの大きなテーブルクロスが欲しいといえば、三日の内に

仕上げて持って来る程何事も器用で、働きながら夜学の高校を卒業する

程頑張り屋でしたから、きっと引く手も数多だったでしょうに 

等と思いが馳せました。

 しかし、気がつけばそれは彼女に取ってとっても失礼な事だと気付きました。

好きな方と結婚をして、子供に恵まれ成長に喜びを感じ 大勢の家族の中で

頼りにされ共に笑い喜びを分かち合い和気藹々と、

思い浮かべれば、彼女の人生の彩られた四季の何処に同情の予知が

あるのでしょうか、それは私の「優越感」の何者でも無いと自分自身の

いやらしさを実感した時でも有りました。

その時、母へ掛ける言葉が思い浮かびました。

「母さん、彼女は母さんに最後もう一度甘えたかったのよ そしてキチンと

お別れがしたかったのよ」と言えば、母は

「そうかも知れないね、私が落ち込んでいたら反って心配させるね」と

返事をしてくれました。

「それにしても長男の嫁は報われないよね」と言えば母、深く頷く

彼女も、母も、私も長男の嫁だったから

 

令和は四年となった現在でも「長男の嫁にだけはなりたくない」と言う

若い女性の言葉をチラホラ耳にします。彼女は六十六歳でした。

無理は禁物 早目にSOSを発信して下さい。(和珞)

                         

 

( ブログの参考文献 )

平岡滴宝著  「改訂版 あなたの運命のすべて」

       「改訂版 子平学・四柱推命法深書」 「改訂版 秘本・子平廣論」

 

( 子峰院 占い人・和珞 2022/02/24 )

 

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