創作小説 < アイツ・4 >

 ブログを見てくれている知人から「アイツ」の続きはまだですか?

と聞かれ、楽しみにしてくれている人もいるのだとわかり、腰を

上げました。

 

子平学・四柱推命に関する最新ブログはこちら

題して、子峰院の子平学・四柱推命( 滴天髄の生時論と源流論からの推命法 )

        

  https://sihoin-waraku.hateblo.jp/entry/2022/07/20/200533

 

< この話はフィクションです >

父と桂子)

桂子は、半島の先で両親は養豚場を営んでいる。通学は半島のたもとの広い公道の

出発点時間距離にして約20分程度定期便の小型船に乗って、それからは自転車で

広い公道を道なりに30分程で学校に着く事になるが、内海であっても海は穏かな

日ばかりでは無く、海が荒れていれば定期便は不通になる。一年を通せば

そんな日は多く半島から通う子供達は、そんな日は見通して知り合いの家に泊めて

貰う事にしている。桂子の母親は私の母親と若かりし頃仕事関係の仲間で親しい

仲だった為、桂子の兄の頃より兄妹は海が荒れそうな日は我が家に泊まっていた。

特に、桂子は海が荒れた日ばかりでは無く金曜日の夜は

「土曜日はお弁当はいらないから」と言って我が家に泊まり夜を過ごす日が

多っかた。桂子は、我が家では人気者、私とは姉妹の様に扱われて家族とは

気心は知れていた。

金曜日の夜9時からテレビでは父が楽しみにしている時代劇が始まリ、桂子もこの

番組が大好きであり二人は親子の如く並んですわり鑑賞するのだった。

ただこの番組では凄いエッチなシーンが必ずあって二人は微動だにせず思春期の

乙女と中年のおっさんがそれを鑑賞している後姿を、山羊のお乳を温めて二人の為

に運び見ている私は何と言って良いのやら摩訶不思議でおかしいのであった。

 桂子は土曜日学校からそのまま自宅へ帰る筈が、朝我が家を出る時、自宅は遠く

お腹が空くだろうからお昼は我が家で食べて帰る様にと、母か祖母に

声を掛けられる。と、言ってもとてもお粗末な昼食だ。特に母が作る自生のニラと

桂子が持ってくる白子干しと卵を練りこんだチジミが大好きでチジミの日が

多かったが、御握りと朝の味噌汁の残りだけの事もあるが、それでも桂子は喜んで

帰宅途中我が家でお昼を済ませて帰るのであった。桂子と私はクラスが違ったので

学校を出る時は違っても、帰宅すれば彼女が家を出発する頃には必ず間に合い、

暫くお喋りをして、一人娘を自宅で心待ちににしているであろう両親を思い、

なるべく早くに彼女を追い出す心構えで見送るであった。

 桂子の心根は繊細ではあったが、それをあからさまに出す事は少なく淡々としな

がら辛は強い処が好きで、私に取っては歩調を合わせ易い人でもあった。

アイツ)

 授業中アイツはよく居眠りをしていたが、それを先生達は咎める様子も無いし

クラスメイト達も何とも言わない。アイツを咎めない先生達も不思議であったし、

それに付け上がって居眠りを続けるアイツを決して好きではなかった。

 ある日、幼馴染の安藤が「アイツさ~裁判官になりたいって、つい最近話してく

れたんだけど、先生達にはとっくの昔に話しているだろうな。日頃自宅でその為の

特別難しい勉強をして、それで先生達はアイツが居眠りをしても何も言わないだろ

うと思うよ。」と、日曜日卓球をしに来ていた安藤は、私が何も聞いていないのに

話しかけてきて教えてくれた。私はアイツと始めて会話した時に打明けられたのに

対し、仲良しの安藤にも弁護士への夢をつい最近話したとは意外でもあった。

それで納得は出来たものの、やはりアイツの無神経と思われて居眠りには好意を

持てなかったが、大らかでニコニコと微笑み誰とも分け隔てなく話をしているのを

見ると許しても良いか、と言う気分にさせられる不思議なアイツだった。

 雨が降り出した午後校舎を後にした、傘を持って来なかったらしいアイツに

背後から「入れて!」と声を掛けられ一緒の傘で歩いていると「アイアイ傘だね」

と言う「そうね、この傘持って帰って良いよ」と言えば「じゃ、家まで送って

行って、それから借りるよ」アイツは公道を道なり、私は公道を左折して歩いて

2・3分の山の中腹に家があるのだがアイツは家までついて来た。

祖母が「蒸かし芋があるから食べて帰りなさい」と言うと遠慮もしないで食べて

から、父の黒い傘を貸して上げると言っても乾いた傘を濡らすよりも濡れた

ままの傘の方が借り易いからと言って、嬉しそうに私の花柄の傘をさして帰った。

 翌朝は、通学途中割りと早い時間に傘を返しに我が家によると私の支度を

待ってくれて、二人で我が家を出発したのだった。

校長先生と私とお習字)

 校長先生は、園芸部の決められた仕事の日は殆んど、作業服に作業帽子をかぶり

軍手をはめ手拭を頸にかけて現れ手伝ってくれた。それは学校の校長らしからぬ

格好で、まるで作業員だった。時々仕事が終ると暑い日には近くの駄菓子屋で

アイスを買ってくるように言われて御馳走に預かり、美枝と三人でお喋りしながら

食べたものだった。

 そして習字は硬筆の課題は全くなくなり毛筆の課題が増え、字体は楷書、草書、

かな等々、筆の太さや紙のサイズも自然と増えていった。

1年生の3学期になると校長の呼びかけで、習字同好会を結成を試みると4・5人が

入会 校長が顧問私が同好会会長となって二年生の最初の生徒会で活動費の予算を

少しばかり生徒会予算からせしめたのであった。 つづく

 

今回の漢文は) 

子貢問日有一言而可以終身行之者乎

子曰其恕乎

己所不欲勿施於人

(衛霊公・えいれいこう)

しこう問いていわく、いちごんのしてもって終身これを行うべき

者あるかと

子曰く、それじょか

おのれの欲せざる所は、人にほどこことなかれと。

恕とは、いつくしみ、思いやり、ゆるす等

簡単な意味

孔子は、一言で、生涯行っても良い言葉とは、「自分がいやだと思う事は人にも

させないようにする思いやり」だと

 

学生の頃の友人は「相手の事を考えて、良かれと思ってした事が

返って誤解を生み、どちらにも良い結果が出ない事があるけれど

結局は、私が嫌と思う事は相手にしない事が一番ね」と

話してくれました。この言葉とよく似てると思いました。

 

  子峰院 和珞の創作小説でした。また出来るだけ近日に

    

                  ※無断転載禁ず